美味しいものを食べた時、思わず笑顔がこぼれる。
大切な人と食卓を囲む、かけがえのない時間。
「食べること」は、私たちの人生における大きな喜びの一つです。
しかし、年齢を重ねるにつれて、「最近、お茶でむせることが増えた」「昔より硬いものが食べにくくなった気がする」と感じることはありませんか?
それは、単なる年齢のせいと見過ごしてはいけない、「摂食嚥下(せっしょくえんげ)機能」の衰えのサインかもしれません。
こんにちは。
歯科医師として長年、多くの方の「食べる」お悩みと向き合い、現在は口腔ケア専門のライターとして活動している中原志保です。
この記事では、いつまでもご自身の口から美味しく食事を楽しんでいただくために、摂食嚥下機能の基本から、ご自宅で簡単にできるリハビリ、そして専門家への相談先まで、分かりやすく丁寧にお伝えします。
この記事を読み終える頃には、「食べる力」を維持するための具体的な方法がわかり、日々の食事への安心感を取り戻せるはずです。
さあ、一緒に「一生美味しく食べる」ための知識を深めていきましょう。
目次
「摂食嚥下」とは? “食べる”を支える大切な仕組み
私たちは毎日、当たり前のように食事をしていますが、実は「食べる」という行為は、非常に多くの器官が連携して行われる、精密で複雑なプロセスです。
この一連の「食べ物を認識し、口に取り込み、飲み込んで胃に送るまで」の過程を、専門用語で「摂食嚥下」と呼びます。
普段は意識しない「食べる」という5つのステップ
皆さんが口にしたおにぎりが、胃に届くまでどのような旅をしているのか、一緒に見ていきましょう。
この旅は、大きく5つのステップに分かれています。
- 先行期(せんこうき)
梅干しが見える美味しそうなおにぎりを「これは食べ物だ」と認識し、どれくらいの大きさで、どんな硬さかを予測する段階です。
この時点で、口の中では唾液がじわっと出てきて、食べる準備が始まります。 - 準備期(じゅんびき)
おにぎりを口に入れ、歯でしっかりと噛み砕きます。
そして、唾液と混ぜ合わせながら、飲み込みやすいひとかたまり(食塊:しょっかい、といいます)を作っていきます。 - 口腔期(こうくうき)
舌の巧みな動きによって、準備期で作られた食塊を、喉の奥へと送り込む段階です。
私たちはこれを無意識に行っていますが、舌の筋肉が非常に重要な役割を果たしています。 - 咽頭期(いんとうき)
ここが一番の正念場です。
食塊が喉の奥に達すると、「ごっくん」という飲み込みの反射(嚥下反射)が起こります。
この時、喉の奥にあるフタ(喉頭蓋:こうとうがい)が素早く気管の入り口を塞ぎ、食べ物が食道へと正しく送り込まれるのです。
この時間はわずか0.5秒ほど。
このフタの動きが少しでも遅れると、「むせ」が起こります。 - 食道期(しょくどうき)
食道に送り込まれた食塊が、食道自身のぜん動運動(筋肉が波打つように動くこと)によって、ゆっくりと胃まで運ばれていく最終段階です。
このように、私たちは普段意識することなく、非常に高度な連携プレーで食事を楽しんでいるのです。
なぜ年齢とともに飲み込む力は衰えるのか?
「若い頃は大丈夫だったのに」と感じるのには、明確な理由があります。
年齢を重ねると、体の様々な機能が変化するのと同じように、摂食嚥下に関わる機能も変化していくのです。
主な原因としては、以下のようなものが挙げられます。
- 筋肉の衰え
腕や足の筋肉が衰えるのと同じように、舌や喉、頬など、飲み込みに関わる筋肉も衰えてきます。
これにより、食べ物をうまくまとめたり、力強く送り込んだりすることが難しくなります。 - 唾液の減少
唾液には、食べ物をまとめやすくしたり、スムーズに飲み込めるようにしたりする潤滑油のような役割があります。
加齢によって唾液腺の機能が低下すると、口の中が乾きやすくなり、飲み込みにくさを感じる原因となります。 - 歯の喪失
しっかりと噛み砕くことができなければ、飲み込みやすい食塊を作ることができません。
虫歯や歯周病で歯を失うと、咀嚼機能が低下し、嚥下にも悪影響を及ぼします。 - 感覚の低下
食べ物が喉を通過する感覚が鈍くなると、嚥下反射が起こるタイミングが遅れがちになります。
これが、食べ物が気管に入りやすくなる「誤嚥(ごえん)」の引き金になるのです。
これらの変化は誰にでも起こりうることです。
大切なのは、そのサインに早く気づき、適切に対処していくことです。
もしかして衰えのサイン?摂食嚥下障害を疑うチェックリスト
「最近ちょっと気になるな」という小さな変化が、摂食嚥下機能の低下を示すサインかもしれません。
以下のチェックリストで、ご自身の状態を確認してみましょう。
ご家族の様子が気になるという方も、ぜひ参考にしてください。
食事中に見られる危険なサイン
□ 食事中や食後に、よくむせる
□ 飲み込んだ後、声がガラガラすることがある
□ 昔に比べて食事に時間がかかるようになった(30分以上)
□ 食べ物が口からこぼれやすくなった
□ 硬いものやパサパサしたものが食べにくくなった
□ 食事の量が減ってきた
□ 錠剤やカプセルなどの薬が飲みにくくなった
食事以外で気づく変化
□ 理由もなく体重が減ってきた
□ 普段から痰がよくからむ
□ 夜、眠っている時に咳き込むことがある
□ 原因がはっきりしない熱が続くことがある
いかがでしたか?
もし、これらの項目に複数当てはまる場合は、摂食嚥下機能が低下している可能性があります。
放置は危険!「誤嚥性肺炎」のリスク
チェックリストの項目で最も注意したいのが「むせる」というサインです。
これは、食べ物や飲み物が誤って気管に入ってしまった(誤嚥した)時に、それを外に出そうとする体の防御反応です。
若い頃は咳き込む力が強いため、誤嚥しても大事に至らないことが多いです。
しかし、加齢によって咳をする力が弱まると、気管に入ったものを排出しきれなくなります。
すると、食べ物や唾液に含まれる細菌が肺に入り込み、炎症を起こしてしまうことがあります。
これが、誤嚥性肺炎(ごえんせいはいえん)です。
誤嚥性肺炎は、特に高齢者にとっては命に関わることもある深刻な病気です。
「たかが、むせ」と軽く考えず、機能が衰える前の早めのケアが、健康で長生きするための鍵となります。
今日から始めよう!自宅でできる簡単リハビリ&トレーニング
摂食嚥下機能の低下は、適切なトレーニングで予防・改善が期待できます。
ここでは、私が歯科医院でも患者さんによくお伝えしていた、ご自宅で誰でも簡単に始められるリハビリ方法をご紹介します。
無理のない範囲で、毎日の習慣にしてみてくださいね。
安全に行うための準備運動
トレーニングを始める前に、まずは首や肩周りの筋肉をリラックスさせましょう。
筋肉が緊張していると、スムーズな飲み込みの妨げになります。
- 首のストレッチ:ゆっくりと首を前後左右に倒したり、回したりします。
- 肩の上げ下げ:両肩をぐっと引き上げて、ストンと落とす動きを数回繰り返します。
- 深呼吸:鼻からゆっくり息を吸って、口からゆっくり吐き出します。
食事の前にこの準備運動を行うだけでも、飲み込みやすさが変わるのを実感できるはずです。
「食べる力」を鍛える3つの簡単トレーニング
準備運動が終わったら、いよいよ本格的なトレーニングです。
食事の前に行うと特に効果的ですよ。
1. パタカラ体操
これは、唇や舌の動きを滑らかにするための発声練習です。
リズミカルに、はっきりと発音するのがポイントです。
- 「パ」:唇をしっかり閉じて破裂させる音。唇を閉じる力を鍛えます。
- 「タ」:舌先を上の前歯の裏につけて発音する音。舌を持ち上げる力を鍛えます。
- 「カ」:舌の奥を上あごの奥につけて発音する音。喉の奥を閉じる練習になります。
- 「ラ」:舌を丸めて弾くように発音する音。舌を巧みに動かす練習です。
「パパパパパ」「タタタタタ」「カカカカカ」「ラララララ」とそれぞれ5回ずつ。
最後に「パ・タ・カ・ラ」と続けて5回、繰り返してみましょう。
2. 舌の筋力トレーニング 💪
舌は筋肉の塊です。
食べ物をまとめたり、送り込んだりするために、舌の筋力は欠かせません。
- 舌を「べーっ」と前に突き出し、5秒キープ。
- 突き出した舌を、左右の口角にそれぞれつけるように動かし、各5秒キープ。
- 舌先で、鼻の頭や顎を触るように、上下に大きく動かします。
3. 嚥下おでこ体操
「ごっくん」と飲み込む時に、喉仏(のどぼとけ)を上に引き上げる筋肉を直接鍛える運動です。
- おでこに手のひらを当てます。
- 手で頭を後ろに押す力に抵抗するように、おへそを覗き込むようにしてぐっと顎を引きます。
- この時、喉のあたりに力が入っているのを確認しながら、5秒間キープします。
- これを5〜10回繰り返します。
この体操は、飲み込む力を即時的に高める効果も報告されています。
食事の直前に行うのがおすすめです。
食事の際に心がけたい工夫
トレーニングと合わせて、普段の食事の仕方にも少し気を配ることで、誤嚥のリスクを大きく減らすことができます。
- 正しい姿勢を意識する
椅子に深く腰掛け、少し前かがみの姿勢で、顎を軽く引いて食べるのが理想的です。
顎が上がっていると、気管の入り口が広がり、誤嚥しやすくなります。 - 一口の量を少なくする
一度にたくさん口に入れると、うまくまとめきれずに誤嚥の原因になります。
ティースプーン1杯程度を目安に、少量ずつ口に運びましょう。 - よく噛んで、ゆっくり食べる
焦りは禁物です。
一口ごとにしっかりと噛み、完全に飲み込んでから次の一口に進むように心がけましょう。 - 食べ物の形態を工夫する
水やお茶などのサラサラした液体や、パンなどのパサパサしたものは、実はむせやすい食べ物です。
とろみ剤を使って飲み込みやすくしたり、食べ物を細かく刻んだり、あんかけにするなどの工夫も有効です。
専門家への相談も大切。いつ、どこに相談すればいい?
セルフケアを続けても改善が見られない場合や、急激な体重減少など、気になる症状が続く場合は、一人で悩まずに専門家に相談することが大切です。
「こんなことで相談していいのかしら?」とためらう必要は全くありません。
相談を検討すべきタイミング
- 先のチェックリストに3つ以上当てはまる
- 食事のたびに、むせたり咳き込んだりする
- 食事に1時間以上かかるようになった
- この1ヶ月で体重が2〜3kg以上減った
上記のような状態であれば、早めに専門機関の受診をおすすめします。
主な相談先とそれぞれの役割
摂食嚥下の問題は、様々な診療科が連携して対応します。
まずは、かかりつけの先生に相談するのが第一歩ですが、代表的な相談先をご紹介します。
- 歯科・口腔外科
まず気軽に相談できる窓口です。
お口の中の状態をチェックし、入れ歯の調整や、口腔ケア、簡単なリハビリの指導などを行ってくれます。 - 耳鼻咽喉科
喉の専門家です。
鼻から細いカメラを入れて飲み込みの様子を直接観察する「嚥下内視鏡検査」など、より詳しい検査をすることができます。 - リハビリテーション科
飲み込みのリハビリを専門に行う「言語聴覚士(ST)」という専門家が在籍しています。
一人ひとりの状態に合わせた、より専門的な訓練プログラムを組んでくれます。
どこに相談すればよいか迷った場合は、まずはかかりつけの歯科医や内科医に相談し、適切な専門医を紹介してもらうのがスムーズです。
まとめ
今回は、「食べることの喜び」をいつまでも持ち続けるために、摂食嚥下機能について詳しく解説してきました。
最後に、この記事の重要なポイントを振り返りましょう。
- 「食べる」という行為は、5つのステップからなる精密な体の仕組みで成り立っている。
- 加齢による筋力や感覚の低下が、飲み込む力を衰えさせる主な原因。
- 「むせ」「食事に時間がかかる」などは、見過ごしてはいけない衰えのサイン。
- 放置すると、命に関わる「誤嚥性肺炎」を引き起こすリスクがある。
- 「パタカラ体操」などの簡単なトレーニングで、食べる力を維持・向上させることができる。
- 気になる症状があれば、ためらわずに歯科や耳鼻咽喉科などの専門家に相談することが大切。
口の健康は、単に歯がきれいというだけでなく、美味しく食事をし、楽しく会話し、心豊かな人生を送るための土台です。
食べる喜びは、生きる喜びそのものと言っても過言ではありません。
今日お伝えしたトレーニングや食事の工夫を、ぜひ一つでも生活に取り入れてみてください。
そして、少しでも不安なことがあれば、どうか一人で抱え込まず、私たち専門家を頼ってくださいね。
あなたの食事が、この先もずっと楽しく、美味しいものであり続けることを心から願っています。
